奥多摩湖の歴史的渇水の状況を体感しようと昭和探検隊としては珍しく日曜日に出撃した。
饅頭の類に目のない御仁は、当然のごとく所望。せっかくなので、私は昔ながらの塩分を強調した梅干しを購入した。なぜか山梨県南アルプス市産だったが、とても美味く、大いに満足している。やはり、塩分はそこそこあるほうが、確実に旨い。
ついにやって来た普門寺。角川新書『地形の思想史』(原武史著)で紹介されており、以前から気になっていた寺である。寺自体も、奥多摩湖湖底に沈んだ旧河内集落から現在地の雲風呂へ移転されたという、極めて珍しい経緯を持つ。さらに、日本共産党の黒歴史とも言える山村工作隊の岩崎貞夫の記念碑まである。
当時の日本共産党は、毛沢東の山岳パルチザンに倣い山村工作隊を結成し、反米武装闘争の一大拠点として小河内村に早稲田大学の学生活動家を大量投入した。結果は惨憺たるもので、大量の逮捕者を出し、総選挙でも共産党は惨敗。路線変更を余儀なくされ、山村工作隊の若者たちは切り捨てられ、なかったことにされた。 人間そのものよりも、組織や党、国家、あるいはイデオロギーや面目を尊ぶ。そうした価値観に支配されている以上、この結果は必然であったと言えるだろう。
急な石段の先に建つ楼門は、寛政2年(1790年)建立のものをそのまま移築されたらしい。
こちらが碑文。
岩崎貞夫の辞世の句『不惜身命・惜身命』
なぜか普門寺の境内、それも本堂のすぐ脇、しかも碑文のすぐ横に、なんとも品のないペンキ塗装の集合住宅が建っている。寺族の寝蔵なのだろうか。
本日のランチは、奥多摩駅前の弁当屋で手作り弁当を購入し、さらに近所の名物精肉店で自慢のコロッケやメンチを買い、野点でお茶と味噌汁をいただこう、という素敵なプランだった。しかし、それらはことごとく吹き飛び、実に残念な零細コンビニで購入した質素な弁当とカップ麺でお茶を濁す羽目となった。それでも、ロケーション選びに成功したおかげで、実に満足のいく食事となった。
奥多摩湖ロープウェイの廃墟を訪ねてみた。Wikipediaによると、
奥多摩湖上遊覧、登山客の利便等を目的とし、1960年(昭和35年)8月12日に索道事業許可、1962年(昭和37年)1月29日に営業運転を開始。総工費は1億5000万円で[1]、折りしも高度経済成長期、1964年東京オリンピックの開催を控え希望に満ちた時代でもあり、営業当初は主に関東方面から多くの観光客を集めたものの、数年後に湖上横断の橋梁が敷設されると自動車やバスで簡単に対岸まで通行が可能になり、乗客が激減。元々高低差がわずか0.6 mほどの平坦な索道で風景も変化に乏しく、距離も622 mと短距離でもあり次第に陳腐化し、1966年(昭和41年)12月1日に「冬季休業」という名目でそのまま運行を一時停止。営業不振の理由により、1975年(昭和50年)3月に正式に運行休止申請が出されている。
福生新聞(昭和36年11月1日)より。イケイケドンドンな時代だったんでしょうね。
当初の目論見が外れて採算が合わなくなること自体は、決して珍しくない。しかし、ロープウェイの「顔」とも言うべき乗客用ゴンドラの塗装が、このレベルである。マスキングテープも使わずにラインを塗装するなど、幼稚園児並みのクオリティではないか。それを許容する経営者であれば、事業の破綻も時間の問題だっただろう。
人里の笛吹。地蔵の群れは素敵なんだけど、あまりに激しい逆光なので写真はことごとく失敗。
神域を穢す罰当たりな行為は不慮の事故や大病の元になります。
所詮、宗教家の相当数は詐欺師であろうという偏見を持つ膝枕だが、さすがに、ここまで露骨に無知で愚かな内面をさらけ出す行為には呆れ果てた。こんな暴言を吐いたら、世間からどのように扱われるかを想像することすらできない、その世間知らずっぷりは、かえって清々しい。
WM氏が先日発見したという阿伎留神社。敷地も広く、かなり手が入っており、衰退しきった地方の神社が多いなかで、珍しく活気を感じる神社だった。
ここからは大悲願寺。夕暮れ時のここは実に素晴らしい。日当たりも抜群で、梅の盛りはやや過ぎてしまったが、まもなく桜が見事に咲き誇るだろう。
横沢入も短時間ながらチェック。そろそろ日が暮れようという時刻だというのに、親子三人連れが歩いて奥地に入っていった。実に不思議。
その後は、東京亭あきる野店で食事をし、国立温泉で芋洗い状態の残念な風呂タイムを味わう。休日とは思えないほど人もクルマも少なく、快適な一日だったが、最後の最後の風呂で残念な気分を味わうこととなった。ああ、もっと写真撮りたかった〜。














































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